慈母観音寺
厄除けと病気平癒の祈祷のお寺
仏壇の正しい祀り方
皆さんに質問させていただきます。
皆さんは仏壇に飾る生花を、いったいどちらの方向に向けてお供えしていますか?
仏壇の中にはご先祖様がいらっしゃいます。
ですから、ご先祖様にお供えするお花は、仏壇の方に向かって飾るのが道理というものでしょう。
しかし、実際には私たちの方に向けてお供えをしていますね。
仏壇の中のご先祖様からすると、花の後姿、下草の部分しか見れず、肝心の綺麗に咲くお花は見ることができないのです。
それで良いのでしょうか?
もう一つ、質問させてください。
お供え物のお菓子や果物はどうでしょうか?
あなたは、どちらに向けてお供えしていますか?
そうですね。やはり大凡にして、私たちの方に向けてお供えしていますね。
そうであれば、お仏壇は私たちから見て綺麗に見えれば良いということなか、不思議に思えます。
さて、この質問に答えられるお坊さんは何人いらっしゃることでしょう。
何故に在家の方々は、この不自然ともいえるお供えの仕方をお坊さんに尋ねてみたりしないのでしょうか?
これについては後でお話することとします。
では、貴方は仏壇に対し、最初と最後に手を合わせていますか?
いわゆる合掌をしていますか?
貴方の左手は、先天運(貴方の先祖を現す手相)
貴方の右手は、後天運(貴方自身を現す手相) です。
ですから、左手と右手を合わせ合掌をすることは、自分の中に間違いなく先祖が生きていることを確認する行いなのです。
掌を合わすことで、先に逝かれた先祖の血は自分が引き継いでいる(遺伝子が続いている)事を自覚し、
また、左手(先祖)と右手(自分)が向き合うことを意識しながら手を合わせ、先祖の血を間違いなく自分が継承していること
感じなくてはなりません。
そして、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)のない先祖に代わって、仏壇にお供えした花を見て、
自分の中に流れている先祖の血に対し
『このお花はとっても美しいです。こうして素直に美しいと思えるのもご先祖様のお陰です。私の中に居るご先祖様、
美しいと思う気持ちをどうぞ私と共にお楽しみ下さい』
と合掌してお伝えしなければならないのです。
これが密教の理趣の世界観なのです。
そこでお解かりでしょうか?
何故、果物やお菓子の向きがこちらを向いているかというと、先祖の代わりに、私たちがお供えを頂き、
その美味しく頂いた感覚や感謝の気持ちを、ご先祖様にお返しする為なのです。
今の自分というものは、何千何万という先祖の一番先に成り立っている生命です。
数え切れない程の先祖の努力や犠牲の上に、貴方は生かされているのです。ですから、毎日、朝出かける時には
『行ってきます』
帰ってきた時には
『ただいま戻りました』
、先祖と共に生きていることを感じながら、挨拶や声かけをすることが大切です。
以前お話したように、
仏壇は私たちの生活に一番近い場所(居間)に安置し、常に話しかけ、先祖を意識した生活を送りましょう。

仏壇の意味
皆さんに質問させていただきます。
皆さんのお家に仏壇はありますか?
もしあったなら、少し仏壇を覗いてみて下さい。
仏壇の一段目の引き出しには何が入っていますか?
過去帳ですか?お葬式のときに使った帳面ですか?それとも蝋燭やマッチ、
または永代供養やお墓の契約書類ですか?
宗派によって多少の違いはありますが、仏壇の一段目の引き出しの正式な呼び名は『納骨箱』なのです。
納骨箱ときけば、何を納める引き出しか、大よその検討は付いたのではないでしょうか?
そうです、亡くなった方のお骨を入れる所なのです。
更に質問します。
皆さんの家の仏壇は、どこの部屋に安置されていますか?
台所、居間、玄関、応接間、それとも仏間でしょうか?
基本的に、仏壇を安置する場所は居間であります。
東西南北、どの方向に安置するか悩む前に、何より、家族が集まってくつろぐ場所、居間に置くこと優先的に考えなくてはなりません。仏壇は、亡くなった人を隔離するための物ではありません。
全く逆の意味。
仏壇は、亡くなった人(ご先祖様)が現在を生きる家族と、一緒に生き続ける為の道具(体)なのです。
そこで、最初の話。納骨箱の話に戻ります。納骨箱には、先祖(父、母、祖父母、その他、家族であった人達)ののど仏を納めます。
(※それ以外の骨はお墓に納めます)そして、日々の出来事を先祖に報告するのです。
例えば・・・・
『お母さん、今日、仕事で上司にいじめられました。本当に嫌だったけど、頑張りますからどうか私を見守ってくださいね』
『今日たけしが隣の子供と喧嘩をして先生に叱られました。お父さん、私たち家族を見守ってください。私は子供のために頑張りますから』
『本日、裕子が婚約しました。お父さん、お母さん、本当にありがとう。これからも私たち頑張りますから、安心してくださいね』
など。
このような具合に、報告と共にお願いや感謝の気持ちを伝えるのです。先祖と会話をすると考えれば、のど仏を納めるという意味が理解していただけると思います。先祖ののど仏は、その方を知っている身内が居なくなったときに初めてお墓に入れるのです。

夢みつつ 煩悩即菩提
当院に三鈷松(三葉松)がきてからちょうど一ヶ月程経ちました。
高野山(霊山)と同様の国産の三鈷松を、しかも根の付いた状態で手に入れることが出来た事を、私は今でもとても信じられない気持ちで居るのです。
以前聞いた話によると、インドのブッタガヤにある菩提樹(お釈迦様が菩提樹の下に座り悟りを開いたとされている樹)と、沙羅双樹(お釈迦様入滅の際、沙羅双樹の花が満開となり、その花びらがお釈迦様に降りかかったとされている樹)、この二つの樹の分け木が、スリランカの寺院に贈られ、現在も信仰厚き人々に守られながら大切に育てられているのだそうです。
この話を思い出した時、密教を信じ学んできた私のもとに、霊山と同じ三鈷松が仏縁によって贈られてきたのではないかという境地に達し、深い想いをめぐらせてしまうのです。
もし、当院の三鈷松が、あの空海(弘法大師)の飛行三鈷のかかっていた三鈷松の分け木であったなら、どんなに幸せなことでしょう。しかし、本当にそうだったらどうしたらいいのかと、何やら不思議な感覚も味わってしまいます。初めてお墓に入れるのです。

人生の意味を知る
私たちは人生の意味を知らなければなりません。
人生とは、人が生きていくと書きます。
釈迦は、人生とは(苦)であり、その代表が生老病死であると説いています。
すなわち、生きていくこと自体が苦痛の連続なのです。
やがて自分が老いてきたことを感じ始めた時、それに比例するように、
若かった頃には出来たことが出来なくなった事、体力も衰えていく事、
様々な事に対し無常の苦しみを思うのです。
体が老いれば、自ずと免疫力も弱り、病気にもなり易くなります。ここでもまた、無常の苦しみを味わうことになるのです。
釈迦はこの事を切実と理解しました。
自己の感覚を3Dのように立体的思想にして、物事に対応、又は動じないようにする事を進めていたのでしょう。
しかし、我々は凡人です。仕事に追われる日々の中で、無常に変化していく現象に囚われ、常に心が右往左往して
苦しんでしまうのです。
原始仏教では煩悩を滅することで悟りを得られると考えていました。
しかし、仏教も後期になると、凡人の我々には欲望を完全になくす事は不可能であるとの考えがおこります。
そこで、密教では、煩悩があるからこそ悟りを求める心が起きるという、いわゆる煩悩即菩提という思想が説かれたのです。
これは、釈迦の教えをあくまでも基本としながらも、『煩悩から悟りを得る』という思想を持って、最終的には釈迦の教えていた
教化の理論に辿り着くという方法なのです。この『煩悩即菩提』を分かりやすく言えば、とり合えず毎日が辛いのであれば、
その辛さに対抗できるだけの欲を持つということなのです。
これは、体が病気の時、医者という行者より、処方された薬の一定量を飲むことにより、早く病気を治すことに似ています。
薬は、はっきりと言ってしまえば毒であります。薬を多量に摂取すれば、場合によれば死を招くのです。
内科的医術は、毒を持って毒(病気)を制すという考えであり、すなわち密教もこれと同化した考えなのです。
今、自分が与えられている作業や仕事、立場から逃げることが出来ないのであれば、その苦痛を超えるだけの希望や目的が
必要だと考えるのです。
それが仮に人道的に難があったとしましょう。しかし人道的難があったとしても、とり合えず一旦それを掴もうとすることにより、
今の苦悩から少しは逃れることが出来得ましょう。
さて、逃れ得ている最中に仏様と縁を結び、その結果、強力な仏縁が生じたならば・・・・
人道的に難があった事さえも、結果人助けとなったり、世の中の為になったり、
また、考え方も不思議と変わってくるものなのです。

100人の村より
もし私が、朝目覚めたとき、とり合えず自分の寿命は一ヶ月以上あると思えたら。
今週を生きることが出来ず、餓死するであろう世界の100万人以上の人達より幸せです。
私は、この仏国の日本に生まれた事に感謝しなければなりません。
もし私が、未だ、戦いの危険や投獄される孤独、極寒の苦痛、あるいは餓えの悲痛を
経験したことがないのなら。世界の5億人以上の人達より恵まれています。
私は、自己意思で寺院に行って、手を合わせられる事に感謝しなければなりません。
もし私が、しつこく責められる事や逮捕、拷問、又は命の恐怖を感じることもなしに、
仏様の前で手を合わせ祈る事が出来るのなら。
世界の30億人の人達より恵まれている事を想い、喜捨をしなければなりません。
もし私の住んでいる所に、食料の入った冷蔵庫があり、頭上には屋根があって、寝ることが出来き、
仏様を部屋の中に安置する事が出来るのなら。世界の人口の75%よりも裕福なのです。
私はその人達の事を思い、布施をしなければなりません。
もし私に少しでも貯金があり、財布にはお金があり、家のどこかに小銭の入った入れ物があって、
寺院の賽銭箱に賽銭を入れる余裕があるのなら。世界の中で最も裕福な上位8%の内の一人なのです。
私は自分の心の中の仏に合掌しなければなりません。
南無観世音菩薩
私は文字を読める事により、世界の難事を知ることが出来ました。
私は、全く字の読めない世界中の20億の人々の事を思い、私の周りの人達に菩薩行をする事を誓いますので、
どうか私をお守り下さい。
(南無観世音菩薩 七反 合掌)
(参考文 100人の村)

曼茶羅の世界
私たちが輪廻転生を繰り返すとき、魂は金剛界(いわゆるア字「ラン」の八葉)より離脱して
胎蔵界に入る。
そしてその胎蔵界を潜り抜ける際に出会った60干支や七曜、28宿の仏様の影響を
貰い受けながら生まれ変わり、その仏様の影響の下で生きていくことになるのだ。
この事からも、前回お話した「現世を生きる私たちに直接作用する諸仏」というのは、
胎蔵界曼荼羅におられる仏様ということを理解していただけると思う。
私たちの日々の生活の中で宿星(仏様の影響)は様々に変化していく。
サ字観の ※八仏様をはじめ、羅ごう星や計都星に作用させるためには、お釈迦様やお不動様の
供養を優先しなければならないし、これからの人生を変えるためには弥勒菩薩様(未来を司るとされている)を
供養することを優先しなければならない。
この考え方は、各寺院で私たちが手を合わす本尊のお姿にも現れているといえよう。
密教を基本ともいえる金剛界曼荼羅や胎蔵界曼荼羅に私たちが直接手を合わしたという記憶はほとんど無い。
どの寺院も大凡、八仏様やお釈迦様、弥勒菩薩様が本尊としてお姿を現してくださっているからだ。
国家や私たちの生活を見守ってくださる理趣の世界(金剛界)の仏様のご供養は、伝法灌頂をうけられたお坊さまに
お任せすることにして、私たちはまず、この仏様を供養することとしよう。
また、縁ある仏様を供養するとともに、破宿星や厄除けに対する特定のお守りを意識的に持つことも有意義なことと
言えるでしょう。もう少し進んで仏教秘仏の世界を知ると理解できるであろうが、密教の根本となっているのが、
胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅である。八仏とは…干支の守り本尊(勢至菩薩・千手観音・大日如来・文殊菩薩・阿弥陀如来・不動明王・
普賢菩薩・虚空蔵菩薩)
何にせよ、本来の貴方の運命上には無かった(仏を供養する)という行いは、必ず貴方の運命を変え、良い方向へと導いて
くれるでしょう。
当方に来られたのも、このブログに出会ったのも、ただの偶然ということはありません。
そこには必ず過去からの仏縁が存在するのです。
過去に何の仏縁も無くただ出会うということは有り得ず、貴方の先祖の仏縁、もしくはあなた自身の仏縁と、当方の仏縁が
気を熟し繋がったものと考えます。
これを機に当方へ足をお運び頂き、正しい仏教と占術を学び、より明るい未来を目指して頂ければ幸いに思います。

観世音菩薩
例えば、不治の病になった人が、お寺へ病のお祈りに行った帰り、たまたま医師と出会う。
たまたまその医師が不治の病を専門としている医師であり、病が治った場合、その出会い
こそが仏縁であり、その医師の姿が観世音菩薩の方便ということになるのだ。
いわゆる、お寺での祈りを観世音菩薩が汲み取ってくださり、仏縁で医師と出会わせ、
方便として観世音菩薩様の気持ち(意識)が医師に感応し、医師は何故か何時もよりも熱心に
治療を行なった結果病気が治る。
このような時、治療に専念する医師の姿そのものが観世音菩薩の化身であって、
千手観世音菩薩の千の手の内の一つの行為そのものということになるのだ。
病気をした者が、辛い体であるのにもかかわらず、お百度参りを何回もしているうちに綺麗に
直ったという話を聞いたことはないだろうか?
このような時、お百度参りという方法を知り得るたことが、正に仏縁である。病にある人が
仏教に係わることにより、観世音菩薩が直接本人の体に働きかけたのだ。
方便として、本人がお百度参りを何回もしている間にその人の新陳代謝が高度に上がり、
免疫力が非常に活性化した結果、病が治るという現象がおこったのである。
このように、我々は大衆の一部であり、世間で言う煩悩者である。病気にかかれば治りたいと
思うし、お腹が空けば食べたいと思うのが常なのだ。
故に、私たちが仏縁や方便によって救われたいと思うこともごく当たり前のことなのである。
大乗仏教の元お生まれになった千手観世音菩薩は、世間が苦悩に満ちている様子をご覧になり、
人々を救いたいとのお気持ち故に千の手(千の方便)を持たれたのである。
煩悩を持つ私たちが、その千手観世音菩薩の意思の一部となって働くことで、煩悩即菩提の境地
に近づけるのである。
そしてまた、たとえ一本の手となって働くことこそ、今後私たち自身が仏教により仏縁と方便を
貰い受ける手段となるのである。
さて、運命表の作成や仏様を供養することにより、貴方の気持ちが以前よりも楽になったのならば、
次は貴方が人助けをしなくてはなりません。
自分や家族を調べたことで身についた占術の力を応用して、仏様の手足の代わりとなって人助けをするのです。
そうしなければ、仏様より頂いた仏智や仏徳を貴方は我欲のために使用したこととなり、仏様の真の願いである
大乗仏教(すべての人が救われる世界)の船に乗ることができないからです。
小乗仏教(己の救いのみのために仏教を学ぶ世界)に留まっていれば、浮き輪をもって小船に乗り、無常という
波の上を揺れ動くような状態となってしまうでしょう。
人はどうしても、この社会という渦の中で生きていかなければなりません。
今の時代のこの人間社会で心を閉ざし、一人だけが悟りにつく訳には到底ならないのです。
様々な人間関係の中、勿論血縁関係を含めてですが、他者の力や仏縁は生き抜く糧として必要なものなのです。
占術を使って人々を助け、一人でも多くの方々に仏縁に触れていただくことが出来れば、それこそが、絵や仏像と
なって姿を現されている仏様の手足の代わりとなって働くことであり、いずれはその功徳が自分の元へと返ってくる
ことでしょう。
余談にはなりますが、私はこう考えます。
もし、絵や銅像の姿になっている仏様が実際に動き出したらどうなるか?
もし、千手観世音菩薩様が突然物象として現れ、災害に会った人々を救うために歩き出されたら私たちはどうするのでしょう。
災害から人々を助ける千手観世音菩薩様なれば、それ相当の大きさでなければなりませんから、身の丈は10メートル程は
あるでしょうか?そんな大きさの菩薩様が被災地に向かってどこかのお寺から抜け出し歩き出したら、一番先に悩むのは
自衛隊の方々でしょう。
日本の法律の概念からすれば、仏様のお姿はされているものの、身の丈10メートルもある千の手を持つ者が街を歩いていた
ならば、そのまま放置しておくわけにはいかないはずです。
しかし、国家より攻撃を命令されたところで、間違いなく仏様のお姿をされているものに対して、いったい何人の自衛隊員が
発砲することができるでしょうか?私たちは、知らない間に観音様という名を知っています。
自分が辛い時やしんどい時に、もし観音様が目の前に居たならば、100人中99人までが「どうか私をお助けください」と
手を合わせることでしょう。たとえ見た目には手を合わさなかったとしても、心の中では密かに合わせているはずなのです。
(観世音菩薩の場合、実際に声に出して手を合わせることで効果が現れるといわれています)
その様に、仏様は実体となって人々を救えないからこそ、仏縁を生じさせることで人々をお救いになっているのです。
