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 家族というテーマ

 

家族は神の与えられた最大のテーマであり、仕事はそれに継ぐテーマであろう。

家族とは、自分の親や兄弟、親戚のことであり、自分の妻、夫、子供のことである。

そこには大きなカルマの法則が仕組まれているのである。

例えば、自分の親や兄弟を冷たくあしらってきた者は、恋人や配偶者から同じ事をされたりも

するし、自分の子供もそのような目にあったりする。

いくら愛や慈悲があるとはいえ、それに甘んじている相手より、自分を守る必要がある。

 

これも神が与えている宿題である。

しかし、相手から受ける五つの攻撃に対し、自分が六~十の攻撃を加えれば、

余分な分は必ず自分に返ってくる。


自分も幸せとなり、相手も幸せにするのが、神の望む和解である。

神が私たちに何を望んでいるのか。それは、魂の和解である。
これを無くしては人は絶対に幸せになれない。
悪縁を悪縁のまま放置しておけば、それは必ずカルマへと形を変え、次の自分の後世や子供に

係わってくるのである。

 

 魂の救済

 

神は二つのものをあたえる。

それは色々あるだろう。

暴力と優しさ、愛情と憎しみ、成功と失敗、勝利と敗北、信頼と裏切り、出会いと別れ 愛が裏切られれば憎しみに変わる。

勝利の後には敗北、栄えの後には衰退というように、その人が持っている運や性格、環境によって表と裏が様々に現れるのだ。

誰でも、憎しみよりは愛、衰退よりは栄え、敗北よりは勝利を選択したいのが心情というものだろう。

大概の人生の場合、自分の努力によって良い方を得ることができるのだが、どうしても、どのようにしても、自分の思う方を選べないこともある。

どんなにもがいても、どんなに血の出るような努力をしても、悪い方しか得ることが出来ないこともあるのだ。

特に、別れや裏切りや敗北などは、自分が素直に認めて心の中で解決を図ろうとしても、たとえ時間が経過したとしても、簡単には解決できる物ではないだろう。

まさしくそこには、何らかの己のカルマが作用し、離脱できないようになっている。

心の病は自分の気持ちの持ち様で変わるともいい、また周りもそれを勧めるが、いくら

周りが勧めても説得をされても、どうしようもできないこともあるのだ。

人はそんな時、慌てて神や仏を祈り、聖書や経典を読んで心を落ち着かせようとする。

しかし、本当に重症の場合、そのような行いでいかほどの心が救われるだろうか。

素直に聖書や経典の意味を理解し、その通りに実行することのほうが難しいのではな

いだろうか。

その結果、絶望と向かい合ったと時、死を選ぶか、無気力になるか、自分や他人を恨む

ことになるのだ。

これらは、どれも神の法則に反する行いである。

しかし、どうしようもないものはどうしようもないのだ。

本当に絶望した時、人は一人孤独になって、周りや友人さえ相談相手にはならないものである。

相談できる相手がいて、心が救われたならば、幸いなことだろう。

ほとんどの場合、友人が居る居ないに係わらず、心を救ってくれるほどの相談相手にはめぐり会えないものだ。

今まで相談していた友人がいかにも頼りなく感じるのは、それは本当に自分の魂と通じていた人ではないからだ。

そんな時はまず、気持ちを落ち着かす別の魂が必要だろう。それによって生命のエネルギーが回復するからだ。

別の魂とは、仏の教えであり、仏縁によって出会った師であり、仲間ではないだろうか。

カルマの多大な影響からは即逃れなければ生きていけない。しかし、決して自分ひとりでは逃れることができないものである。

自分の魂を救済してくれる相手に出会わなければ、いくら時間をかけてもそれまでのカルマの影響を受け、心が傷つけば、いかなる人も信じることが出来ず、人間不信に陥ってしまうのだ。

 

 

 

神よ、神の真理が理解でき、神の法則を知り、実行できる人は幸せです。

しかし神よ、この世は神の意志を理解できるほど強い人間ばかりではありません。

これには、生まれ持った性格や、強さ、弱さ、また、過去や現在の環境が大きく関わってきます。

前向きに生きようとする姿勢は同じでも、人にはそれぞれの器というものがあるのです。

器は神から与えられるものであり、その器の中に蓄えをするのは私達自身なのです。

もし、善悪を見分ける力があまり無く、与えられた器に悪ばかりを詰め込んでしまったのなら、

その人は蓄えたものを全て善に入れ替えなければなりません。

しかし、その人はきっと、入れ替えの途中で力尽きて死んでしまうでしょう。

仏様、仏の知恵を私達罪人にお与えください。

うさぎはうさぎ。

犬やライオンにはなれません。

ですから、仏の知恵により、うさぎに犬のような鼻と頭を、ライオン

のような速さと力を分け与えてください。

犬やライオンが為した結果と、同等の果実をお与えください。


 

 

 壮絶な人生

 

 

人によっては壮絶な人生を歩むように運命盤にプログラムされている人がいる。

または、自分の親は勿論、先祖の残した宿題も同時に解決しねければならない運命にある人もいるのである。

それは、一つは両親、またはそのどちらかの因縁を受け継ぎ、その親の残した宿題を解決するために自分や世の中と戦って行く人。

それは、その人の運命盤を見れば一目瞭然である。

ある一定の星の配列をしている人に限るからだ。

神は、与えられた課題を解決するのにギリギリの体力と知恵と知力しかその者に与えない。

これは先天的なものであり、後は自分の努力、つまり後天的なもので補うしかないのだ。

それが出来るか否かによって、自分が親からの宿題を解決し、自分の自己実現ができるかどうかとなってくる。

宿題は多い人もいれば少ない人もいる。

多い人にはそれだけの物を神は与えてくれる。しかし、手に余るほどの物を与えてくれたりはしない。

神や自然の法則を知り、神から与えられたものを上手く、また正しく使えた人だけが満足の

いく自己実現が出来るのである。

親からの宿題のみならず、先祖の残された宿題を解決する人

の人生は、波乱万丈を超えて壮絶なものになることが多い。

しかし、神は、その壮絶な物と戦うことができるだけの可能な能力と知恵を

その人に与えてくれるのである。

しかし、そのような人は平凡には生きられない。

やはり、壮絶な人生となるであろう。

 神仏

 

 

自分の運命を変えるということは、これは本当に大変、壮絶なことである。

全面的に神仏の力を借りて進むか、または、運命を自己の力のみで変えるかだ。

自己の力のみで変えるには、本来自分の一番苦手としている部分を、人並以上に

実践していかなければならない。

よって、本来自分に備わっていない能力、実力・・・・・

実力とは、実際の行動力である

を備えなければならない事になるのだから。

まあ、壮絶な戦いとなる上に、自分一人では戦い方すら理解できないであろう。

しかし、ヒントはある。

神仏

神仏は、人にヒントを与えてくれる。

真の実力が備わり、それを正しく使えば・・・・

人の運命は必ず変わる。

 

 生きる

 

 

何故、人は幸せな目的を得るために手段を選ばないのか。

それか、必要最小限度で戦い、和解や妥協を取り入れるかだ。

それによって、自分の運命盤の脅威の大・小が変わってくる。

それによって人は、運命どおりに生きるのか、運命の難を逃れて生きていけるのかが決まる。

自分がどのようにして問題を解決していくのかは、神仏と愛と慈悲を考えれば解る。

人を裏切って後に傷つけられるより、人に尽くして裏切られた方が傷は遥かに浅いし、立ち直りが早いし、後悔度が少なくて済むようになっている。

しかし、裏切られる機会を待って攻撃を計画するのは法則に反し、同じ目を自分も受けることになるのである。

不思議である。

自分が生きている間に宿題は解いていくべきであり、残すほど苦しいものである。

かく言っても、逃れられないのが宿命であり、これは決定されたものなのだから、逆境心にして生きていけばいいし、絶対に逃れられないものならば、軽くすれば良いのである。

せめて子供に引き継がないようにしてやるべきだ。

本当に、子供は親の運を引き継ぐものであり、親や先祖や自分に与えられた宿題を総合して簡潔しなければならない目に合ったりする。

人生の敵は、神仏が自分の魂を育成させる用意されたもの。

自分が誰かの敵になっていると感じたときには、自分はその相手に攻撃するようプログラムされている事を知り、そこに愛や慈悲も加えれば、相手にとっても良くなってくるし、自分の魂の育成度も早くなる。

また、相手に攻撃する事が自分の運命盤に出ているので、自分はその対面にある星に攻撃されることになる。

しかし、攻撃する相手に愛や慈悲を加えることが出来たのなら、自分も攻撃される相手からの攻撃が弱まったりもする。

また、人は常に愛と慈悲の気持ちを忘れてはならない。

自分の前の敵も、全て神仏が用意したものであり、その敵と戦うのも、また和解するのも神仏が見ているのである。

自分が敵と思い、痛みつけた相手は、本当に自分にとって敵なのかどうか。

何も神仏は人間に愛や慈悲だけを与えてくれているのではない。

恨みや悲しみ、怒りという武器も与えているのであり、それをどのように使うのかを見ているのである。

人と争うのでも、必ず愛や慈悲を忘れてはならない。

必要以上に自分の武器を使えば、自然と神仏の力によって、同じ、いやそれ以上に必ず報いは受けなければならない。

相手に対する報復は、人間がするのではなく、本来、神仏がすることになる。
また、自分が受けているものが攻撃だけなのかどうか。

その中に愛や思いやりは全く見出せないのか。

自分が如何に不幸に思えても、今の自分の中には数万の遺伝子が内蓄されている。

その先祖の先端に自分が居るのである。

だから、いくら不幸に見えても、自分よりもっと苦しく、死と直面しても死ぬ事の出来なかった

先祖も居ることを知らなければならない。

周りの環境と自分を比べるのではなく、古しの時代と自分を比べれば、

いくらかも幸せな状況なのかもしれない。

人は、愛と慈悲だけでは生きていけないだろう。

そこに他と自分と戦うことも定められている。

生存競争とはそんなものだ。

しかし、どのようにして戦っていくのかが神が見ているところである。

 

 力を引き出す

 

 

親は、我が子の本当の気持ちを知ろうと思ったら、一旦、子供と分かれなければならない。

いつまでも親元にいる子供の魂は、親の帰属物になってしまっていることを、

親は知らなければならない。

そんな子供が、どのように幸せになるのか?

人は自信が無ければ、自分の持っている能力を最大に使うことはできない。

自分の持っている能力を最大に使うということは、自信が無ければ不可能である。

その自信とは、現在の自分が上手く生きているという自信では無く、ある一定の時期、

上手く生きてきた事により得た自信なのだ。

それを自分の自信と認め、たとえ自分がどんな不幸になったとしても、

自分の能力を引き出すように努力するべきだ。

不運と能力は別の物であり、不運と自信も別の物だ。

 

 

 平凡

 

 

平凡に生きるということはなんと難しいことだろう。

何故

それは、幸せは自分一人だけで存在するのではなく、

複数でなければ存在しないからだ。

自分以外、他人の気持ちの奥底まで、誰が知ることが出来ようか。

神仏のみぞ知るのである。

人は人との拘りによってしか自分の位置を知ることが出来ない。

だから知らず知らずのうち他者と接触するのである。

自分にとって何が一番幸せなのか。

それは、世間が言う幸せではなく、自分が幸せと思うか、

本当に満足しているかということになる。

それが宿題の解決にも繋がっていくのだ。

 

 

 

 カルマ

 

 

今の時代、なぜカルマが即自分に返ってくるのか。

それは、時代が変化すると共に、人の魂も変化し、成長してくからなのです。

おそらく神仏は、早くそれが同一するという風に思っているのでしょう。

今の社会は、科学や法律によって形成されています。

人が神仏に近づこうとすればするほど、その時代に生きる人々は
(自分がどう生きていかなければいけないか)
を早く知る義務に追われることになるのです。

時間の経過と共に、占いが栄えてきているのもそのせいでしょう。

神仏は時として斬新に見えることもあります。

悪い宗教にはそれなりの人が集い、良い宗教にもそれなりの人が集まります。

神仏は、その時々に、乗るか降りるかを選ぶ権利を人々にお与えになるのですが、そこにカルマが作用してくるのです。

悪い宗教は、時間の経過と共に消滅し、それを動かしてきた者は原点に戻されます。

これは神仏による間引きの行為なのかもしれません。

それならば、なぜ神仏はこの世に善と悪をお作りになったのでしょうか?

自然界にも食べる側と食べられる側があるように、いつの時代にも弱肉強食の原則はあるのです。

なぜ神仏は、自然界に色々な種を作り、進化を促すのでしょうか?

何万種という種が死滅していくことも、運命で決まっていたとするならば、なぜ、その生物をお作りになったのでしょう。

しかし、人間には、古くから占いという技法が与えられてきました。

ここが他の生物とのちがいでしょう。

運命とは、ある面から見れば決定されているようにみえますが、またある面から見れば代えられるものでもあるのです。

今の時代。神仏は人々にとって最大限の宿命をお与えになっているのです。

そしてまた、最大限のカルマもお与えになっているのです。

平凡に生きれる人は幸いと思わなければならないでしょう。

 

カルマが解決できない人は、いつまでも試練を与えられるのですから。

解決できない限り、カルマは死ぬまで与えられるのです。

戦争のある時代に生きてきた人は不幸です。

しかし、今の複雑な時代を生きなければならない私達も決して幸せとはいえません。

死ぬまで 幸せだった といえる人など居ないでしょう。

それを感じることの出来る人は悟りを開いた人のみなのです。

 

 人間関係

 

 

自分は自分で我が強く、わが道を行くのはいいのです。

ですが、それがたとえ人間的に正しい道であったとしても、急に進路を変えてしまっては、それについて行っている人に多大な影響を及ぼしてしまいます。

たとえそうした方が正しいと思えても、相手が納得していない以上、その念は自分の子供・子孫に帰ってくるのです。

自分の持って産まれた宿命を全て変えてしまうことはできません。

その宿命こそが、自分が産まれてきたときに与えられた宿題なのです。

嫌だからといって、相手の気持ちも考えずに別れてしまえば、その相手の苦しみは必ず自分、もしくは自分の子孫に、その通りになって帰ってきます。

それが因果の法則です。

この因縁というものは、何年かで消したり、変えられるものではありません。
心をしっかり持ったとしても、自分の中にある気質というものが、自分を支配しているのです。

はっきり言って、物理的に変えるか、もしくは人間の繋がりで変えるしかないのです。

これが波動です。

自分は自分なりにすることがあります。

波動を変化させ、精神的な幸せを味わい、更に人生の宿題を解決する。

これが出来ている人だけが、本当に幸せを掴めたということになるのです。

たとえ相手が傲慢で、自分勝手な人であったとしても、その相手といる事です。

運命の中に仕組まれているのですから、それから逃げてもまた同じことが出てくるのです。

時には嘘をつくことも方便です。

本当に不幸を知らない人間は幸せです。

そういう人を成長させるためには、潰しきっては駄目です。

相手を潰しきる事は、宿題としては与えられていないはずです。

もし離れるならば、相手を傷つけてはいけません。

相手が一人で立てるようになるまで、他に相応しい相手が出来るまで見守るのです。

もし、あなたが逆の立場ならどうでしょう。

神仏は、今の世に、まさに人間関係という最後の宿題を与えているのです。
科学も芸術も真理を極めました。

最後に残っているものは人間関係というものなのです。

そこに全てが集約されています。

また、実力もそうでしょう。

自分を高めるということは、何においても慈悲の気持ちを持つということです。
本当にその通りなのです。

人を許す気持ちが無ければ、また、自分も許されません。

相手を許し、自分も許す。

難しいことです。

これが出来れば、人としてのランクが一つ上がります。

それには全ての法則を必要とします。

例えれば、火と水を合わせるような困難な術が必要となります。

本当に出来るのでしょうか。

精魂込めて、全生命をかけて取り組まなければなりません。

 

 

 

  ソールメイト

 

自分がいつまでも助けられたいと思う相手には、責任と愛情を持って接し、

いつまでも助けられたいと思わない相手には、自立をさせてあげるのが原則というものでしょう。

 

真より、助けられたいと思う相手は自分にとってソールメイトの可能性があります。

それは、その人と自分とで一人前という場合があるのです。

そして、それ以外の人達(いつまでも助けてもらいたいと思わない人)には、

その人に相応しいソールメイトと出会えるよう、また、より高いソールメイトを探せるように

自立させる必要があるでしょう。

 

人を助けるということは、時として、自分に依存させるという結果を招くことがあります。

もし、自分にとってその人がソールメイトだと思えたら、依存だけではなく、愛情と責任を

与えてあげることが一番良いでしょう。

なぜならば、その人は貴方に会ったとき、既に人間として自立が確立されているからです

 

依存にも良い依存と悪い依存があります。

 

相手が自分にとってソールメイトだと解れば、互いに依存しあうことも悪い事ではないといえるでしょう。

ただし、原則、ソールメイトを一方的に手放すことは許されません。

いくら相手が悪かったとしても、相手の理解がないままにソールメイトと別れれば、そのカルマはそのまま貴方や

貴方の身辺の者を直撃するのです。

そして長い間、貴方の周りに存在し苦しめるでしょう。

ですから、ソールメイトか否かはよく考えて決断しなければなりません。

そして、自分が決断した以上、相手は自分のソールメイトということになるのです。

一旦ソールメイトとなると、お互いに魂の救済を始めていくことになります。これはあくまでもお互いということです。

魂と肉体が繋がっている人ならば、それはお互いに理解し合わなければなりませんし、魂と経済が繋がっている人ならば、

それもお互いに理解しなければなりません。

ソールメイトとは、互いに魂を浄化させたり、安定させていくものなのです。

また神は、互いの魂の救済と同時に、神の意思による試練もお与えになるのです。

 

 

 

 

  置き換える

 

私は、神のご意思だけではなく、仏と自分の両方が納得できる方法で菩薩の道を選択します。

そして、与えられたカルマも解決いたします。

そして、常に仏様と和解いたします。

神の最良の方法で生きていけたなら、この世に争いや戦争は起こりません。

しかし、戦争で死んだ者、収容所で無念に死んだ者達は悪人だったのでしょうか?

何故、死しか選択出来なかったのですか?

私は剣を捨てる訳にはいきません。

 

最大の剣を持ち、最大に仏様を理解したいのです。

剣に明王の法則を与え、平和というものに置き換えてください。

 

何故、罪の無い弱い者が倒されていくのですか?

剣に明王の智恵を与え、平和に置き換えてください。

 

何故、全く罪の無い子供たちが無残に殺されてきたのですか?

怒りに仏の智恵を与え、平和に置き換えてください。

 

何故、人を信じた者が、信じた者に裏切られるのですか?

恨みに仏の智恵を与え、平和に置き換えてください。

 

神よ、何故私達は剣と怒りと恨みを捨てることができないのですか?

仏よ、私達の罪に仏の智恵と光をお与えになり、平和というものに置き換えてください。

仏よ、私達、神の英知に乏しい者に、仏の光と智恵をお与えください。

 

 

  置き換える

 

私は、神のご意思だけではなく、仏と自分の両方が納得できる方法で菩薩の道を選択します。

そして、与えられたカルマも解決いたします。

そして、常に仏様と和解いたします。

神の最良の方法で生きていけたなら、この世に争いや戦争は起こりません。

しかし、戦争で死んだ者、収容所で無念に死んだ者達は悪人だったのでしょうか?

何故、死しか選択出来なかったのですか?

私は剣を捨てる訳にはいきません。

 

最大の剣を持ち、最大に仏様を理解したいのです。

剣に明王の法則を与え、平和というものに置き換えてください。

 

何故、罪の無い弱い者が倒されていくのですか?

剣に明王の智恵を与え、平和に置き換えてください。

 

何故、全く罪の無い子供たちが無残に殺されてきたのですか?

怒りに仏の智恵を与え、平和に置き換えてください。

 

何故、人を信じた者が、信じた者に裏切られるのですか?

恨みに仏の智恵を与え、平和に置き換えてください。

 

神よ、何故私達は剣と怒りと恨みを捨てることができないのですか?

仏よ、私達の罪に仏の智恵と光をお与えになり、平和というものに置き換えてください。

仏よ、私達、神の英知に乏しい者に、仏の光と智恵をお与えください。

 

 

  真のパートナー

 

愛欲、性欲、金欲、何もかも欲しいが、追いついたと思っても

手に入れることはできない。

 

全て手に入れたとき、自分に平和が訪れるのか。

そんな日は本当に来るのだろうか。

人は全てを手に入れることは絶対に無い。

一つ手に入れるためには、後のものを犠牲にするものだ。

それは、その人自身の心の持ち方であろう。

二つを手に入れる人もいる。

悟りを開いた人は別として、人は生きている限り悩み続けるのである。

 

人と人との付き合いは、この混沌とした社会では壮絶になるしかないのである。

お互いが何もかも裸になり、共に信頼しあうことができたら、それは本当に求めるべき

愛に近いのではないだろうか。

そこには何の疑いや恐れも無く、また利益感情も無い一心一体の考えがある。他人はあくまでも他人。

別々の人間だと言ってしまえばそこには何の救いも無い。

とりあえずのパートナーとしては良いだろうが・・・・・

 

人生には山や谷、時には嵐もある。晴れた時には共に乗り越え、嵐や谷にかかると手を放す。

れは決して真実の愛では無い。

私も人のことは言えないが、今は解る。お互いの考え方は違っていても、それを超越するものが愛である。

性欲だけで結ばれるのは真のではない。それは愛欲というものだろう。

人は『伴侶』とよく言うが、伴侶とは、自分たちの内部に嵐が吹き荒れたときこそ、共に乗り越えていくものだろう。

愛を育むのに傷つくことを躊躇してはいけない。

その時自分が傷ついたり、相手を傷つけたりすることを恐れていると、そのつけは必ず後に回ってくる。

その結果、傷つけることを恐れて人が、大きく相手を傷つけることになる。

裸同士ということは、自分の思いや思想も全て裸である。そこに社会性や利益的な感情を持っていると、

それは単なるパートナーということになる。

パートナーという枠を超えてこそ本当の愛が生まれるのだ。

人は完全でないからより完全な人を望む。しかし、その人が完全な人ではないと解れば、

裏切られたという事にもなりかねない。これは、親子や夫婦でもいえることであろう。 

 

  愛とは

 

愛とは何か、求めれば求めるほど解らなくなる。

愛は無償に与えるものなのか、与えられるものなのか。

人によって愛の考え方は様々だ。

人間関係は、仕事での利益を交えた人間関係、共に話し合える友人関係。

しかし、その心理といっているのも自分の思いによるものだから、なかなか不確かなものである。

人間は、死ぬまでその探求をしながら死んでいくのだと思う。親子の愛は別して、愛とはお互いに

依存しあう事なのか。


思う。

確かに人は誰かに支えられてしか生きられないものだ。

 

それが、恋人や愛人、親、又は神、宗教など。

一人で生きていると思っている人でも、必ず、誰かに支えられているものなのだ。

もし、その支えを失ってしまったら、何ものも無くしてしまうだろう。

人は、信じているものや愛を無くしてしまった時に、他人を傷つけても平気な心になる。

その苦しいときに、丸裸になった時に、そこから得られる愛こそが真の愛に近い愛なのだ。

愛は罪でもあり、気持ちの糧でもある。つまり、人の気持ちがその人の運命を決めるのだ。

 

 

  宿題

 

人は、現在おかれた状況そのものが、神仏から与えられた宿題であり、それを放棄せず、

乗り越えて解決していかなければならない。

そうしなければ、その状況がいつまでも続くか、あるいはそれから逃げ出したとしても、

その問題はよく似たような状況となりまた襲ってきて、けっして止むことはない。

同じことの繰り返しを与えられるだけである。

神は、神の存在を知るまで、同じ苦しみを与え続けるのである。

 

人は死ぬまで解決できなかった宿題を来世にもちこすことになる。

生まれ変わる時、その宿題と出会うために用意された生年月日に生まれる仕組みになっているのだ。

その宿題が存在する運命盤に生まれるのである。

今の時代は特にそうである。

個人個人にその宿題が与えられるのだ。戦争や紛争など、どうしようもない状況が起こるのは、

これは神が人間全体に宿題をお与えになっているのであり、これは非情なことでもある。

しかし、そんな困難を乗り越えてきた子孫である私たちは、そのような神から与えられる宿題を疎かにしてはならない。

また、親が宿題を残したまま死んでしまうと、全てその子供が次の世代で責任を解決するのではなく、またその次の子

にも受け継がれるのである。

 

これが因縁というものである。

 

 

  表と裏

 

カルマはすなわち、表と裏のある型で訪れます。


大きく言うと幸と不幸。


いわゆる一枚の平和・平凡というプレートの上にカルマが蓄積していき、

カルマの重さに耐えかねて、そのプレートはクルリと裏にひっくり返るのです。


そして、そのプレートを元に戻すエネルギーのない人は、確実に衰退していくのです。

 

  カルマの影響

 

カルマの影響は絶大です。

特にその中でも、自分の親や土地、そして自分の過去の行為によるカルマの影響は計り知れません。

過去の行為によるカルマについては、意外と理解されやすいのですが、親や土地によるカルマの影響は

なかなか理解されません。

しかし、私は不動産という職業を数年間やってきて痛切に思うのですが、親や土地によるカルマの影響は

特に大きく、一番理解しにくいのです。

また、親が自分自身のカルマを自ら解消しなければ、子供がそのカルマのターゲットになりやすいのです。

ですから、親はまず、自分のカルマを子供に引き継がせないようにしなければなりません。

子供は本来、純粋な一個の魂です。しかし、子供は親を選べません。

金持ちや、地位名誉のある家に生まれたからといって決して幸せとは限らないのです。

地位や名誉、土地財産を得るということは、その分大きくカルマと係わることになるからです。

カルマの影響を受けない自由な魂、これが一番幸せといえるのです。

親からのカルマが無ければ、子供は子供自身で自分というものを探せるのです。

親は子供に対して、手助けをするだけに留めなければなりません。

協力はいくらしても良いですが、子供に親の思いや意思を押し付けるということは、

子供が親のカルマをまともに継承してしまうということになるのです。

すなわち、親が解消できなかったカルマを子供が解消しなければいけない事になるのです。

本来、子供は自分が生きていく中で、自分のカルマを作ってしまうのもです。

その上に親のカルマまで継承することになれば、それはもう大変な事なのです。

親のカルマを引き継ぐか、引き継がないかは、本人の心です。

 

引き継ぐ場合は、神仏と和解しなければなりません。土地にも絶大な魂があります。

自分の先祖をはじめ、何代もの人たちによって所有されてきたものは土地しかないのです。

その土地を今まで所有しているということは、その為にどれだけの犠牲があったかということを

知っておかなければならないのです。

 

 

  神仏

 

自分の運命を変えるということは、これは本当に大変、壮絶なことである。

全面的に神仏の力を借りて進むか、または、運命を自己の力のみで変えるかだ。

自己の力のみで変えるには、本来自分の一番苦手としている部分を、人並以上に

実践していかなければならない。

よって、本来自分に備わっていない能力、実力・・・・・

実力とは、実際の行動力を備えなければならない事になるのだから。

まあ、壮絶な戦いとなる上に、自分一人では戦い方すら理解できないであろう。

しかし、ヒントはある。

 

神仏

神仏は、人にヒントを与えてくれる。

真の実力が備わり、それを正しく使えば・・・・

 

人の運命は必ず変わる。

 

 

  善の種を撒く

 

 

人は自分が不幸になった時、他を恨むと、その念が自分に反発し、かえって自分の心身を

蝕むのである。他人を恨むことは誤りである。自分に降りかかった不幸は、全て自分の撒いた種が

発芽したのに過ぎないのだ。

発芽した種は、やがて草になり太陽を遮って大地に暗黒を与える。

一度闇を受けた大地の花は、悪の草に光を奪われ枯れてしまうだろう。

大きく育った花であれば、少々の雑草にも負けはしないだろが、まだ育ちかけの花は、

少しの陰りでも枯れてしまうのである。

陰りの中に入った時、人は自分の運気が最悪だと錯覚してしまい、知らぬ間に更に不幸の種を

撒いているのである。

なにより、運気が最大のときに撒いた不幸の種の成長は思ったより早い。

とにかく早くて強いのである。

その種は、自分の悪い気持ちが反映したものである。

神仏は、その種が発芽するとき、それらを解決する為に複数の物を与えてくれる。

いわゆる、金の斧と銀の斧である。

物語とは少々違うが、自分はどの刃(解決策)を使うべきが。

 

 

  カルマの法則

 

 

人は、運命が自分中心に動き出すときが一番危ない事を知らなければならない。

その時、自分は自分の良い部分と悪い部分を最大に出し、良いも悪いも活躍することになる。

ところが、自分にとって良い部分はすぐに現象を現すが、

悪い部分はすぐにその反動の現象は出てこないことが多い。

 

それは、自分の勢いに悪い状況がとりあえず封じられているに過ぎない。

そのうち、勝手気ままにやっていると悪いものが蓄積されて、どうにもならない状況となって

自分を襲うのである。

 

だから、自分の運の最強の時に八方塞になっている人は後からは幸せである。

そのときは自分の良い面が出ず、悪い面ばかり出るので、それを学習しておけば、

後々とんでもない目に会わないで済むのである。

 

自分の運勢が最大に良い時に、幾つかの信号が出るようになっている。

そのわずかな信号を読み取り、謹んで反省し、即実行できる人は最大の運を掴むことになる。

反対に、無視をして進んだ人は最大の危機を迎えることになる。

人によっては命に関わることになるのである。

要は、まず自分の運命盤の構成要件を知り、自分の弱点を知るべきである。

良いも悪いも、自分の与えたものが、後になって自分に与えられるのである。

それがカルマの法則である。

人は、人によって裁かれる(刑法など)間はまだ幸せであり、

運命によって裁かれるのは、その何倍も苦しいということを知るべきである。

 

 

  生きる

 

何故、人は幸せな目的を得るために手段を選ばないのか。

それか、必要最小限度で戦い、和解や妥協を取り入れるかだ。

それによって、自分の運命盤の脅威の大・小が変わってくる。

それによって人は、運命どおりに生きるのか、運命の難を逃れて生きていけるのかが決まる。

自分がどのようにして問題を解決していくのかは、神仏と愛と慈悲を考えれば解る。

人を裏切って後に傷つけられるより、人に尽くして裏切られた方が傷は遥かに浅いし、

立ち直りが早いし、後悔度が少なくて済むようになっている。

しかし、裏切られる機会を待って攻撃を計画するのは法則に反し、同じ目を自分も受けることに

なるのである。不思議である。

自分が生きている間に宿題は解いていくべきであり、残すほど苦しいものである。

かく言っても、逃れられないのが宿命であり、これは決定されたものなのだから、逆境心にして生きていけばいいし、

絶対に逃れられないものならば、軽くすれば良いのである。せめて子供に引き継がないようにしてやるべきだ。

本当に、子供は親の運を引き継ぐものであり、親や先祖や自分に与えられた宿題を総合して簡潔しなければならない目に合ったりする。

人生の敵は、神仏が自分の魂を育成させる用意されたもの。

自分が誰かの敵になっていると感じたときには、自分はその相手に攻撃するようプログラムされている事を知り、

そこに愛や慈悲も加えれば、相手にとっても良くなってくるし、自分の魂の育成度も早くなる。

また、相手に攻撃する事が自分の運命盤に出ているので、自分はその対面にある星に攻撃されることになる。

しかし、攻撃する相手に愛や慈悲を加えることが出来たのなら、自分も攻撃される相手からの攻撃が弱まったりもする。

また、人は常に愛と慈悲の気持ちを忘れてはならない。

自分の前の敵も、全て神仏が用意したものであり、その敵と戦うのも、また和解するのも神仏が見ているのである。

自分が敵と思い、痛みつけた相手は、本当に自分にとって敵なのかどうか。

何も神仏は人間に愛や慈悲だけを与えてくれているのではない。

恨みや悲しみ、怒りという武器も与えているのであり、それをどのように使うのかを見ているのである。

人と争うのでも、必ず愛や慈悲を忘れてはならない。

必要以上に自分の武器を使えば、自然と神仏の力によって、同じ、いやそれ以上に必ず報いは受けなければならない。

相手に対する報復は、人間がするのではなく、本来、神仏がすることになる。また、自分が受けているものが攻撃だけなのかどうか。

その中に愛や思いやりは全く見出せないのか。

自分が如何に不幸に思えても、今の自分の中には数万の遺伝子が内蓄されている。

その先祖の先端に自分が居るのである。

 

だから、いくら不幸に見えても、自分よりもっと苦しく、死と直面しても死ぬ事の出来なかった先祖も居ることを知らなければならない。

周りの環境と自分を比べるのではなく、古しの時代と自分を比べれば、いくらかも幸せな状況なのかもしれない。

人は、愛と慈悲だけでは生きていけないだろう。

そこに他と自分と戦うことも定められている。生存競争とはそんなものだ。

しかし、どのようにして戦っていくのかが神が見ているところである。

 

 

 

 

 考え方を変える

 

全ての人は、その人の考え方や性格や能力で人生が決定されているようだ。

性格や能力、それらはなかなか変えられない。DNAとの関係もあるだろう。

勿論、育ってきた環境も大きく作用するであろうが、唯一自分で変えられるものは考え方であろう。

考え方一つでその人の人生も変わるものだ。時として、性格や能力は考え方と反発するかもしれない。

する人のほうが多分多いだろう。

しかし、もし性格と考え方が悪い方向に向いているとすれば、ほっといても悪いほうへと行ってしまう。

だから考え方を変えるということは大切なのだ。小さい頃の性格や性質は、自分の持っているものと

環境によって決まってしまう。これは、ある一定の年齢に達したら変えるのは難しい。

しかし、考え方はその人の思考で決まる。

良いことをすれば救われるという考えよりも、自分を信頼できるようになるためには、どのように人を

信用して付き合っていき、その人に作用すべきかを考えることの方が直接的で効果も早い。

人には色々な性格や考え方を持った人がいる。

もし、大切な人が居たとしたら、その人の考え方が肯定でき、その人の考え方を自分も取り入れようと

するだろう。しかし、色々な人が自分の成功した事を本に書いているが、それは誰にでも真似出来る事ではない。

どんなに人から軽蔑された、されている人間にも可能性はある。

 

生きて、生きて、生きて、その可能性を見つけるのも人生の凄みだと思えば、また明日も生きられる。

愛されたいと思う人は、本当に愛されることに前向きになって生きればそれでいいと思う。

人に愛されるには、愛されるのに相応しい人生を歩んでいかなければならないのか。

でも、人はすぐには変われない。だから一歩一歩それを目指せばいい。

 

夢が叶わなくても、叶うと信じて真の愛に巡り会うまで、もし苦しかったらたとえ嘘の愛にしがみついてもいいじゃないか。

このコンクリートジャングルの中で生きていけたら。とにかく生きること。可能性を消さないこと。

会社が倒産しても、子供を取られても、借金苦に追われても、過去を敵にしても戦えない。

だから苦しんで苦しんで、いずれ立ち上がればいい。

何も成功伝ばかりが素晴らしいとは思わない。

失敗があるから成功伝は素晴らしいと思えるのであり、失敗の彼方に必ず成功はあるものだ。

 

でも、一つ云える事は、どんな場合といえども人に対する思いやりと優しさを忘れてはならない。

弱い者ほどそういうものが必要であり、それを否定して生きていくのなら必ず報復を受けるものだから。

 

 和解

 

たとえ、相手に石を投げつけられても唾を吐きつけられても、仏様と自分が相談をし

相手と和解すべきと考えたなら、誠意を持って相手と和解するよう努めるべきである。

その結果、不本意に相手が正しい和解をしないのならばそれはそれで、カルマは相手を

襲うだろうし自分のカルマは、少しでも軽くなるだろう。

そのときは、相手と和解するのではなく仏様と和解することになる。

 

 

 能力値

 

力ある者よ、能力値の高い者よ、常に強い立場にある者よ。

君達は、いずれ知るであろう

君の中の能力が、君の努力で築き上げたものではなく、神仏から与えられていることを。

そのような遺伝子を持てる運命は、神仏の作用によって得たものであることを知るべきである。

もし君が、弱い者や弱い立場にある者に対し、見捨てるような行為をとった場合、君は、

君よりさらに強い者、強い立場にある者に、必ず見捨てられる時が来るであろう。

神仏は、その能力を君の為だけに与えたのではない。

弱い者や、弱い立場にあるという者は、人間的に堕落している者や、愚かな者を含むことを

決して忘れてはならない。

君がもし、その者達を見くびれば、君は神仏に見くびられることになる。

神仏は、人を見くびるためや、見捨てるために、君に正しい心と、素晴らしい能力を与えた訳ではない。

君は10年後、20年後、体力も衰えたとき、必ず事象と戦うことになるだろう。

現在の君には能力が与えられているため、悪運を蓄積する力がある。

ただ、あくまでも蓄積させているだけにすぎない。

能力のある人間は、普通の人間より宿題は多いし、大きい事を知るべきだ。

そうすれば、普通の人の倍の幸せを得るだろう。

そうしなければ、人の倍の不幸を得るのだ。

 

 力を引き出す

 

親は、我が子の本当の気持ちを知ろうと思ったら、一旦、子供と分かれなければならない。

いつまでも親元にいる子供の魂は、親の帰属物になってしまっていることを親は知らなければならない。

そんな子供が、どのように幸せになるのか?

人は自信が無ければ、自分の持っている能力を最大に使うことはできない。

自分の持っている能力を最大に使うということは、自信が無ければ不可能である。

その自信とは、現在の自分が上手く生きているという自信では無く、ある一定の時期、

上手く生きてきた事により得た自信なのだ。

それを自分の自信と認め、たとえ自分がどんな不幸になったとしても、自分の能力を引き出すように努力するべきだ。

不運と能力は別の物であり、不運と自信も別の物だ。

 

(慈母観音寺)

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